「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義完全翻訳版を読んだ感想

みなさんこんばんは。

 

今回は「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義完全翻訳版を読んだ感想です。

本屋に行くと、目立つ場所に置かれており気になったため読んでみることにしてみました。

 

以下、書籍より引用した文章については下記のボックスで囲みます。
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著者は?

著者は、イェール大学のシェリー・ケーガン氏です。道徳哲学や、規範倫理学を専門としており、「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義(日本縮約版も含む)は世界各国で40万部を超え翻訳出版されています。

翻訳は柴谷裕之氏です。早稲田大学、Earlham Collegeを卒業され、訳書に「サピエンス全史」「ホモデウス」などがあります。

 

印象に残った内容は?

人間の形而上学についての疑問

私たちは、人間とはいったいどういうものなのか知る必要がある。哲学の専門用語では、これは「人間の形而上学についての疑問」という。

それではここで、この疑問についての二つの基本的な立場を概説しよう。これら二つの立場は、諜報とも非常に有名な考え方に基づいている。だからみなさんにはお馴染みだと思うし、ここで検討する価値が最も高いことは明白だ(人間の形而上学について考えうる立場がこの二つ以外にもあることは間違い無いのだが)

これから私たちは、そのどちからを選ぶべきか、考えなければならない。

立場①二元論:人間=身体+心(魂)

立場②物理主義:人間=身体

死について考えるために、人間について考えていきます。

著者のシェリー・ケーガンは物理主義の観点に立っています。しかし、もちろん一つ一つを学生にも解るように、平易な言葉で考察していきます。考えていく上で、二元論の魂を証明することができないので、物理主義の観点に立っています。

私自身何となく二元論の立場に立っていましたが、確かに魂の存在を確認したこともないので、これについては自分なりに考える必要があるように感じます。

 

人格の同一性を論じる際の注意点

だがこの疑問について考えるにあたっては、犯しがちな誤りを確実に避けることが重要になる。みなさんは、ついこう言いたくなるかもしれない。

「いいですが、木曜日にこの本を書いていた人は、少なくとも、かなりたっぷり髪の毛が生えていました。ひげも生えていました。でも、2055年に生きている人は、頭が禿げていて、腰も曲がっていて、ひげも生えていないとしましょう。それなら、この二人がどうして同じ人だなどということがあるでしょうか?」

私がこの本を読むまで死ぬことを恐れていたとしましょう。この本を読んだ私が、もうすでに死ぬのが怖くなくなりました。

これは果たして同一人物なのでしょうか、ということですね。。この本を読んだことで、今まで普通だと思っていたことがよくわからなくなってきました。哲学は難しいですね・・・

 

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魂の入れ替わりには、本人も気づかない!?-ロックの概念

もし神が土曜日の夜に私の魂を別の魂と取り替え(元の魂を消滅させ)たら、私は死ぬ。日曜日の朝に目覚める人は私ではない。

もちろん、彼は自分が私だと考えるだろう。彼はこう思う。「私は先週哲学について書いていた人と、まさに同じ人だ」と。

だが、彼は間違っていることになる。彼は同じ人ではない。

なぜなら、同じ魂を持っていないからだ。彼は間違っている上に、ここがとりわけ重要なのだが、彼にはそれを知る術が全くない。

彼は自分の信念を確認できる。自分の欲望を確認できる。自分を記憶を確認できる。だが、魂説によれば、それは「人格の同一性」のカギではないという。魂説によれば、「人格の同一性」のカギは、同じ魂を持っていることだからだ。

魂が同じであれば、思想が変わろうが、姿が変わろうが同一性が保たれます。

しかし、魂が入れ替わったかどうかは知る術はありませんし、そもそも形而上学的に物理主義の立場に立つと、魂は存在しません。

 

ここで、身体説という、私が私であることを決めるのは「身体」であると仮定することで、魂を用いずに同一性を考えることができます。しかし、これにも問題があります。

 

死後の身体の復活-じつはただの「複製」であって、別物にすぎない?

この考え方、すなわち身体は腐敗してもまた元どおりに組み立て直せるという考え方に異を唱える例だ。この例は現代の形而上学者ピーター・ヴァン・インワーゲンによる。

私の息子が積み木で手の込んだ塔を作ったとしよう。見事な出来栄えだ。そして息子は、「ママが帰ってきたら見せて」

と言ってからベッドに入って寝る。その後、私が家の掃除をしていて、うっかりその塔を崩してしまう。

「しまった!きっと、かんかんに怒るだろうな。気をつけると約束したんだから」

と私は悔やむ。しかたがないので、積木を拾い集め、息子が作ったのとまさに同じ形、まさに同じ構造の塔を作り直す。

しかも、細心の注意を払い、積み木の一つひとつが、息子が作ったときと完全に同じ位置に来るようにする(積木には番号が振ってあるかもしれない)。

こうして私は塔を作り(いや、作り直し)、そこへ妻が帰ってきていう。

「すごい、息子が作ったのね。これはうちの息子が作った塔なのね」

最後の審判が訪れた際に、神が元通りに身体を組み立てたとしても、それは上記理論に当てはめると、同じ身体ではありません。

筆者も、「形而上学的な疑問についてどう言って良いのか、わからない」とおっしゃっています。

理解しようとするとかなり頭が疲れる内容です。

 

「あなたの余命はあと1年です」-そのとき、あなたは何をする?

もし、あと一年か二年しか残っていなかったら、みなさんはその時間で何をするだろう?学校に行くか?旅行に出るか?友人たちともっと時間を過ごすか?

この疑問に直面しなければならなかった人の、並外れて感動的な例が、私がイェール大学で教えている死についての講座で見られた。数年前、その講座には死を目前にした学生がいた。本人も自分が死ぬことを知っていた。一年生の時に癌という診断を受けていたのだ。医師は、回復の見込みがないに等しいことを告げ、しかも、あと二年しか生きられないと伝えた。そうと知った学生は、自問せざるをえなかった。

「さて、残された二年で何をするべきか?」

彼は、自分がしたいのはイェール大学の学位を取ることであると見極めた。そして、死ぬまでに卒業するという目標を立てた。~中略~

けっきょく、彼は十分な成績を収めていたことがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を一人、死の床に派遣し、彼が死ぬ前に学位を授与した。

これは単純にイェール大学の対応がすごいと思ったことです。

日本でこのような対応を取れる場所は、ほとんどないのではないでしょうか。一流の大学だからできる、一流の対応だと思います。

 

自殺の合理性に関するシェリー先生の結論

したがって、自殺の合理性という問題的を絞っている限り、自殺は時として正当化できるというのが私の結論だ。

より正確に言うと、もし自殺を合理的な自己利益という観点から評価するなら、特定の条件下では自殺は合理的なものとして正当化できる。死んだほうがましという人生がありうる。自分はそうした状況にあると信じるのが当然という場合がありうる。

これは、例えば病気になって、死んだほうが良い状況がずっと続く場合などについてです。

ガンになってあとは苦しんで死ぬだけと言う場合は、自殺は妥当ということです。

これについては、私は完全に同意します。苦しいことに対する救済が死しかないのならば、自殺は選択の一つになりうるかと思います。

 

1人を殺せば5人が助かる-考えるほどに深みにはまる道徳的命題

病院に、さまざまな臓器不全で死にかけている患者が5人いるとしよう。一人は心臓移植が必要で、別の人は腎臓移植が、さらに別の人は肝臓移植が必要という具合だ。残念ながら組織に不適合があり、この5人の誰が死んでも臓器を残りの人の救済には使えない。そんなとき、この病院に定期検診を受けにきたのがフレッドという男性で、彼は健康そのものだ。そしてみなさんが調べたところ(みなさんは医師だ)、フレッドは先ほどの五人の患者全員への臓器提供者としてまさにうってつけであることがわかる。

そこで、ふと思う。

もしフレッドを殺してその死因を隠し、あたかも突然の発作で死んだかのように見せかける方法が何かしら見つかったら、フレッドの臓器を使って五人の命が救えるのではないか。

これはトロッコ問題と似たような形ですね(上記名称は臓器くじ)。

上記問題に対する筆者の具体的な主張はありませんが、「罪のない人を害する義務論者が道徳的に禁じるのを、たいていの人が受け容れる。害したほうが実際には結果が良いだろうとしても。」と書かれています。

これについては、道徳の授業などで扱って良い問題のように思えます。

 

2019年9月ごろに問題になったのが、山口県岩国市立東小学校と東中学校で「心理教育プログラム」として実施された授業で、トロッコ問題が扱われました。→小中学校で扱われたトロッコ問題について

しかし苦情が入り、学校が謝罪することになりました。

児童の保護者から「授業で不安を感じている」と学校に苦情が入り、学校側は一部の子どもに心理的不安を与えたとして児童や保護者に文書で謝罪したということだ。

上記サイトより引用

 

上記サイト中で、臨床倫理士兼スクールカウンセラーでもある明星大学准教授の藤井靖氏は、

「哲学者のフィリッパ・フットが考えた問題で、古くから使われてはいるが、僕がやるならこの問題は使わない。やはり人の命に関わることなので、感受性の強い子は場面をリアルに想像してショックを受けてしまったり、授業が終わっても気分の悪さを引きずってしまう可能性がある」

とコメントしております。

私的には、考えることは非常に重要だと思うので、中学校で扱っても良い問題に感じましたが、上記教授がトラウマを負う危険性があるとおっしゃっているので、この問題は中学校レベルでは扱わないほうが良いのですね。

教育について非常に考えさせられました。

 

感想

まず最初の一言は、難しいにつきます。論理的に考えるのが苦手な私にとって、論理的に死について語っていくのは、非常に疲れました。

また、700ページを超える内容でして、納得できる内容ももちろんありましてが、後半に行くと前半の内容を忘れてしまうことも多々ありました。前半で言っていたことは、後半のどこにつながっているかわからなくなることもしばしばありました。

やはりこう言った分厚い本は、何度も読み返さないと頭に入ってこない気がしています。

 

自殺について感情論を抜きにして、論理的に書かれているのが面白いと思いました。

そして、私が考えていた理論と、シェリー・ケーガン氏との意見が一致した点について喜ばしく思えました。

 

何年後かに読んだら、また感想が変わりそうなので、思い出した数年後に読みたい本でもあります。

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